木庭顕『ポスト戦後日本の知的状況』(講談社選書メチエ) https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000387591 では、大学の歴史授業が「グローバル・ヒストリー」一色になる一方で、「ポスト・コロニアリズム」や「カルチュラル・スタディーズ」が十分に定着せずに不発に終わったことについて、次のように書かれている。
「「ポスト・コロニアリズム」分析や「カルチュラル・スタディーズ」は日本の帝国主義的近代を鋭く批判しうる。しかし「グローバル・ヒストリー」の西欧中心主義批判は転じて反西欧の闘争を鼓吹するというより非西欧たるをそのまま全て肯定してくれる。「お前は挫折したけれども、どうせあのブドウは酸っぱい、今のままでお前はいいんだよ」と言ってくれるのである。」
世界史研究者の皆さんは猛反発されるかもしれないけれど、日本社会における知見の定着、という観点から見れば、こういった側面があることは否定しがたいようにも思う。
なお、別の箇所では、日本では、「ポスト・コロニアリズム」や「カルチュラル・スタディーズ」の多元性礼賛が、「日本にも固有の価値がある」から「日本がやはり一番だ」にずれていってしまう(グローバル・ヒストリーも同様の構造でねじれていく)ことが指摘されていたりもする。
それにしても、この 『ポスト戦後日本の知的状況』という本、特に後半、自分の世代が親しんできたスター学者を軒並みばっさりと切り捨てていて、あまりの鮮やかさについつい面白く読んでしまった。
とはいえ、ご本人や弟子筋の皆さんは怒り心頭かもしれない。
ただ、金と暴力と権力で物事が決する社会ではない社会をどのように構築するかという問題意識は明瞭。
そのためには、木庭氏が「クリティーク」と呼ぶ、現実と斬り結びつつ、様々な言論を精緻に比較し、分析し、議論を組み立てていく、知的活動の基盤となる要素を知的セクターが備えていなければならず、それが戦後一度建て直されかけたが、また全面的に崩壊した、そうした過程として語られている、というところは踏まえておきたい。
木庭顕氏の他の研究者への批判は、基本、そのやり方は精緻ではない、というもので、ところがその批判の記述も精緻ではない、という意味で雑なのは、まあ、そうかと(その分、読み物としては楽しく読めちゃうわけだけど)。
一方で、言論と法に基づく社会を維持するために、まず知的セクターが精緻に言葉を紡でいなければどうにもならない、という視点はやはり重要かと。その主張については、このくらい雑に書いてもらうと、自分レベルだと、やっと少し分かった気になるのだった(正直、主著の三部作とかまったく歯が立たない)。
とはいえ、このレベルの雑な議論では、社会を支えるには全く足りない、というのが木庭氏の主張でもある訳で、なんとも逆説的な本ではあり。宛先がない、というよりは、どこかに届いたとしても、役に立たないことが前提されているので。
木庭氏が、様々な研究者を叩きながら、一方で自らの敗北をやたらと強調するのも、嫌味ではなく、本当にそう思っているのだろうな、と思ってしまうのだった。
木庭顕『ポスト戦後日本の知的状況』(講談社選書メチエ) https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000387591 についてもう一点補足。
ポスト戦後を画する書物としてとりあげられていたのが、村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎『文明としてのイエ社会』(中央公論社,1979)というところに、虚を突かれたところがあって、著者三人の名前と、また、「イエ」こそが日本社会の本質であるとしている点が組み合わさると、何とも言えない説得力があった。
同書https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001421561 は国立国会図書館の個人送信サービスで中身が確認できるので、斜め読みしてみると確かに面白い。古代から高度成長期まで、「イエ」構造の変遷という形で、博覧強記的な事例の参照とそれを明快に解説する図式が、欧米と対比する形で描かれていて、なるほど、日本とはイエの国だったのか、という気分になる。
著者の先生方の意図は分からないけど、結果的に、日本社会の基本単位は家族である(べき)、という思想を、支える結果をもたらしたんじゃないかなあ。
なお、木庭氏は、そういった、分かりやすく吟味を欠く言説を批判しつつ、『文明としてのイエ社会』が描いた将来シナリオが、現在の状況を(悪い意味で)見事に準備していたことを、ある意味評価していたりする。