弱い個人などいない。個人を弱くしているものがあるとすれば、それは社会である。— 最高裁旧優生保護法違憲大法廷判決を読む(蟻川恒正) (Web日本評論)
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「法律時報」96巻13号(2024年12月号)掲載記事。
旧優生保護法における不妊手術の根拠規定を憲法違反とする最高裁判決を読み解いたもの。
報道で繰り返された「戦後最大の人権侵害」という言葉に感じる「空々しさ」から出発して、憲法学における「弱い個人」(権利行使が覚束ないような自律的判断能力にもとる個人)像に立脚した人権論を構成すべきとする議論を振り返りつつ、一方で、今回の判決の当事者である原告の二人が、訴訟に至るまでの経緯を踏まえての「強さ」を語った上で、
「憲法学に足りなかったのは、強制不妊手術を受けたことに苦しむ「強い個人」が「強い個人」であり続けることを妨げている社会的障害を除去する努力と、彼ら彼女らが有している意思が貫徹されるようにする(法の基本原理である「意思の尊重」・「意思主義」)という当たり前の実践であった。」
と断じている。
「国会が制定した法律が特定範疇の個人を「不良」と公定することが、対象とされた個人にとって、どれだけ巨大な桎梏となるか。」
「本判決が立法目的自体を許されないものと断じたのは、自らの人生を自らの意思によって切り拓こうとする個人に対して、意思そのものを法律が予め抑圧すること以上に、その人生を破壊する行為はないと考えたためであろう。」
などなど、印象的な言葉があちこちに。
最高裁判決をある意味過剰に見えるほどに踏み込んで読み込むことで、そのインパクトを明確に切り出そうとしているようにも見える、というのはそれこそ読み込みすぎか。