流れてきた新聞記事で、今週号のモーニングで弘兼憲史と編集部が謝罪のコメントを出しているんだけど、その末尾に「読者の皆様にお詫びする」とある。いや読者は別に迷惑被っていないだろうと。交通事故を起こしておいて、被害者には謝らず、目を合わせることすらせず、たまたま居合わせたギャラリーだけに頭を下げているわけだ。
つまり弘兼と講談社は「いかに謝らないか」に全神経を使っている。
で、現在流通している政治的な言葉とは、結局「いかに謝らないか」に集約される表現体系だったりする。斉藤元兵庫県知事しかり、検察庁しかり。
ここで注目すべきなのは、この謝罪の文面が、あらゆる可能性とオプションとリスクとを念頭に置いて、綿密に作成されたに違いないということだ。謝罪の相手を「関係者」にするか「読者」にするかという議論もどこかの段階で必ずなされたはずだ。
最終的な文面においては、日当問題が実在するかデマであるかという検証はされず、むしろそれが真実であるという可能性をも排除しない表現になっている。
つまり弘兼らは単に「不確かな情報を<フィクションでありながらも>真実と取られかねないやり方で読者に提供したこと」のみを謝っている。そこからは一歩もはみ出まいと周到に言葉を選んでいる。全てが計算づくだ。
さて、こういうある種の「工学」に基づいた「言葉」があたり構わず蔓延している今、言葉とは何かと改めて考えざるを得ない。ちなみにこうした言葉を生んでいるのは高学歴者たちである。よって学校教育が倫理的な思考や言葉を育む基礎になるというのも幻想だということになる。やや悲観的な考えかもしれないが。
ここにある種のねじれはある。
つまり、弘兼=講談社が用いる「政治的言語」はむしろ(表向き)政治を忌避している。「これは表現の問題です。政治の問題ではありません。」と言っているわけだから。出版社がリスク回避をするための戦術として、これはある意味真っ当なやりかただだ。余計な飛び火を防ぐことになるので。しかし、おそらくそれだけではない。
「謝ったら死ぬ」と考えているのは、多分、講談社ではなく弘兼憲史本人だ。彼が「日当問題はデマでした」などと言おうものなら、彼を陰日向から支えてきた「何か」に見放され、商売上がったりになるだろう。彼が貫いている姿勢こそが政治的と言える。しかしこの政治的姿勢そのものは決して言語化されない。政治的な言葉は政治を迂回し続ける。
だとすると、もし文学的な言葉があるとすれば、それは無言のまま統治する政治に言葉を持たせるような言葉なのかも知れない。それらが語る裸の声を聞かせるような恐るべき言葉。