共産党や社民党の政策や「良さ」がわかりづらいという趣旨の意見が流れてきていて、大きくは二つの側面があり、ひとつは党や候補者のやり方が時代に即しておらず、リサーチと努力が足りない、れいわや維新を見習え、という方向と、ひとつは若いもんの教育が足りないから政策とか理解しづらいので教育から始めねば、という方向なんだがいずれも正論ながらいずれにも違和感がある。
単純に、共産党や社民党は「理解されていない」から弱いのではなく、「ある種のイメージにおいて理解されている」からこそ弱いのではないか。クソ真面目な学級委員長が無理して「クラスの面白い奴」の真似しても悲惨な結果にしかならないのは火を見るよりも明らかなんであって、むしろ学級委員長の戦い方としては、何らか自らのイメージに「異化効果」を持ち込むしかない。それは「向こうのレベルに降りてゆく」ことでも「わかりやすく喋る」ことでもない。逆にゴツゴツとした異物としての自分を見せること。自らのイメージを恐ろしい速度で生き切り、ついにはそれを突き破ること。すると周囲は「え?ナニ?」となる。物事はそっから。
あとここで流れている世代論を見ると、若いモンはおおよそ教育の機会を奪われており、貧困のリスクに晒されており、権力批判の牙をあらかじめ抜かれているイメージで捉えられている。つまり彼らは「欠如」によって規定される存在だ。しかし彼らとてハリボテではないので頭の中には必ず「何か」が詰まっているはずだ。しかし我々にはそれが何かがわからない。マストドンのタイムラインを目を皿のようにして眺めても、若いモンが「何でないか」がわかるだけで彼らが「何であるか」は皆目わからない。この状態で我々が何らかの働きかけをして意味のある結果が生まれるはずもない。
でも、自分はだから若者を理解するように努めましょうと言うつもりはない。絶対無理だし。若いモンたちとて別に我々に理解してもらおうなどとは思ってはいないだろう。そこだけはわかる。
では我々が若いモンを振り向かせるにはどうするか。物分かりのよい先生みたいに振る舞うのではなく、逆に徹底的に理解不能な存在として立ち塞がることだ。大人ってそういうことでしょと。そういうやり方は、子供に理解されないまでも、絶対に彼らの記憶に残る。イメージとして消費されないことがむしろ大事。
その意味で言うと、このポスターの絵面はいただけない。無理した挙句に失笑されて終わりという王道パターンではないか。ちなみにこれは昨日文京区で撮った写真。(もちろん金子さんは応援していますとも!)