ちなみに弘兼憲史本人にデマ拡散の明確な意図があったか否かということは、自分的にほぼどうでもいい。というか、そうだとしたらむしろ話は簡単だ。病巣の深さを見極めようとするならば、そうでないと仮定して考えた方が、より「武器として使える」知見に辿り着きやすくなるだろう。
島耕作のモーニンング今週号掲載分のエピソードを通読して思うのは、そこに匂い立つえもいえないイヤらしさが、弘兼憲史個人の意図を超えて、図らずも我々のイヤらしさを表現しているということだ。今回起きたことは弘兼個人の罪にとどまらず、我々ヤマトの罪だとひとまずは言っておく。
その意味で自分が手にしているモーニング2024年10月31日号は永久保存版である。
社外取締役島耕作
STEP 63 What’s My Age Again?
あらすじ
(1/2)
Aパート:
沖縄を訪れている島耕作の一行は、朝ホテルを出発し、午前中ひとしきりゴルフを楽しんだ後、ビールで乾杯となる。そこは海に面したテラス。島が「あそこに見えるのは何ですか?埋め立て工事?」と尋ねると、同席していた現地の女性が米軍の辺野古埋め立て地だと答える。「あ あそこが辺野古か」と島。
B
で、問題の場面。島らとのやり取りの中で、女性は海上の小船が「反対派の抗議船を監視しているアルバイトの漁船」だと説明し、ついでのように「抗議している側もアルバイトでやっている人がたくさんいますよ 私も一日いくらの日当で雇われたことがありました」と語る。
C
島の「抗議活動をしている人達の中には県外から来る人もあると聞いたことがある」という言葉を受けて、女性は「反対する人が多い理由のひとつに基地移転によってサンゴ礁などの生態系が破壊されるのではないかという懸念があります」と答える。
D
以後、話題は辺野古を離れて、日本の国土のほどんどがサンゴ礁が変質した石灰岩でできているという話題に移る。
(続く)
社外取締役島耕作
STEP 63 What’s My Age Again?
あらすじ
(2/2)
E
石灰岩の説明をしていた人物が、セメント業界の社長だか会長だかであることが明らかになる。島は「国分君」(うろ覚えだけどメインキャラの一人だったような)に、この会社の社外取締役になってはどうかと勧め、その社長も「お願いしますよ」と。国分は「私でよければぜひ」と快諾。島は「よかった! 沖縄にやってきてすべてうまくまとまった」と満足。
F
国分が「まとまったのはもうひとつあります」と。彼は同席している現地女性(アルバイト云々の話をした人物)と昨夜「一夜を共にしてお互い人生最後の恋に落ちた」と告白。二人は結婚することに。
「あれれ、お二人とも固まってしまったわ」
「セメント業界の人だからしょうがないか」
ちゃんちゃん。
ま、リテラシーが少しでもある人間なら、この凡庸で気の抜けたストーリー展開が、いかに沖縄を蔑ろにしているかなど、今更説明する必要もないだろう。
もちろん、ここには弘兼本人の明確な悪意がある。だが、彼が意識していない部分の方がより醜悪だ。その醜悪さは我々の醜悪さでもある。
辺野古は、沖縄が歩んできた琉球以来の被植民地としての歴史の、最も神経過敏な一点だと言える。その、背後に夥しい数の非業の死を隠した風景を見下ろしながら、ビールで乾杯し、雑談と商談に勤しむヤマトの裕福な男たち、という構図で既にゲロの海なわけだ。しかも島は「あそこが辺野古か」などとすっとぼけて見せる。
基地反対闘争の長く苦い歴史は、ぞんざいなどっちもどっち論と「アルバイト」というフレーズによって跡形もなく消え失せてしまう。辺野古の問題は、あたかもニュートラルな「環境問題」であるかの如くに語られた上で、登場人物たちの商談のネタになってしまう。さらにヤマトのいい年こいたおっさんが意気投合して一夜を共にするのは「現地女性」だったりする。これは大昔の植民地主義プロパガンダ映画そのままの展開だ。こうして島耕作は「沖縄にやってきてすべてうまくまとまった」と言うのだ。
これら全てを一貫した悪意のもとに描いたとすれば、弘兼憲史はある種の天才だということになる。
もちろんこれは反語であって、弘兼に才気のきらめきなどは見られない。これはむしろ驚くべきことだ。このような人物が、どうやってここまで上り詰めたのか。漫画は一本独鈷の人気商売なので、もう仕事仕事、努力努力でしかあり得ない。雑誌の巻頭にあるインタビューからも読み取れる通り、何十年にもわたって寝る間も惜み、超人的な精力でペンを走らせた。その末の栄光なのだ。うまい飯であり、酒であり、政財界の大物との肝胆照らしあう交わりなのだ。沖縄を舞台にして彼が描いているのは。
弘兼憲史=島耕作が見ているビジョンは、ホイチョイ(って知ってるかな)や松任谷由美や糸井重里らが80年代に構築した世界がそのまま無反省に延長された「その後」だと言える。この一連の人物たちの功罪は今更言及するにも及ばないだろうが、結局彼らに代表される「我らの80年代」は、最初から、島耕作の最新エピソードと同じ態度を繰り返してきたのだ。経済活動万能主義と「なんとなくの気分」による政治と歴史の隠蔽、つまり沖縄の抹殺だ。弘兼憲司は今まで彼ら(つまり我ら)が散々やってきたことを、いささかの稚気とノスタルジーで再現して見せただけなのかも知れない。そこに右派への目配せが散りばめられているにしても、所詮「それだけのこと」なのだ。彼にしてみれば。沖縄は彼のサクセスストーリーの「書き割り」に過ぎない。我々ヤマトの大多数も、結局は沖縄に対して弘兼と同じ態度を共有している。しかし漫画の貧相な書き割りでしかない沖縄が、今まさに周囲に憎悪を撒き散らしつつ、現実の歴史ある沖縄を脅かしている。これを何とかするのは今まで共犯者であり続けてきた我々の義務だ。