東京大空襲から79年になるのかな。昔書いた駄文ですが、時間があったら読んでください。(あれ。もう19年も前の文章なんだね)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(4)---東京大空襲60年
https://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2005/03/60.html
「小さい頃から、東京大空襲の記憶は祖母に聞いて育った。その頃、我が家は浅草にあったのであるが、祖母と幼かった父とは、祖母の郷里である三重県に疎開していて、浅草には祖父が残っていた。
寡黙にして、あまり口数の多くない祖父であったが、この空襲に浅草で遭遇した。祖母は、東京に戻り、あまりの惨状に祖父の死を確信したそうだが、奇跡的に祖父は空襲の中生き延びた。
どのような「地獄」があったのか直接聞く機会はなかったが、先日放映されたNHKスペシャル「東京大空襲60年目の被災地図」では、この人類史上に残る大虐殺の一端が紹介され、様々な事実が紹介されていた。
「3月10日未明のB-29爆撃機344機による爆撃は、40km2の円周上にナパーム製高性能焼夷弾を投下して東京の住民が逃げられないようにした後、東京市の隅田川沿岸地区を中心にその円の内側を塗りつぶすように約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が投下された。当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。(Wikipedea 東京大空襲より)
「投下された100万発(2000トン)もの焼夷弾は(NHKスペシャルでは32万発と紹介された)およそ2時間半の間、東京の隅田川沿岸を焼き尽くし10万人もの犠牲者を出した。
仮に32万発としても、この途方も無い数は、毎分2100発もの焼夷弾が2時間半にわたって降り注いだことになる。まさに狂気のなせる業である。その上逃げ惑う市民には超低空のB29から機銃掃射が浴びせられたのである。
とかく広島や長崎の影に隠れがちな東京大空襲であるが、ここで指揮をとったカーチス・E・ルメイは、回想記のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」(東京を爆撃せよー作戦任務報告書は語るー 三省堂選書<奥住喜重・早乙女勝元>より)
全てが軍需工場だったというのである。民家ではなく。
「このような許しがたい、でたらめな言い訳に終始するルメイに対して、こともあろうに日本は佐藤内閣の時代、昭和39年に「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、勲一等旭日大綬章まで贈っている。
(何ということだろう。)
東京大空襲が、災禍の歴史として語り継がれることはあっても、加害者としての米国への追求が全くなされなかったどころか、このあまりにも、あまりにも愚かな勲章授与は一体どうしたことだったのだろう。
当時、米国の極東戦略に巧みに組み込まれながら、再武装への道を歩んでいたこの国には、もはや「魂を売る」と評されてもしかたがない決断しかなかったのか。
あの隅田川に、業火から逃れるために飛び込み、あるいは生きながら焼かれていった数十万の人々を思うとき、東京大空襲は、決して忘れてはならないこの国の記憶である」
以下略