311の時には震災2ヶ月後に南相馬市に入った。その時にはもっと早く来ればよかった。本当に悲惨な現場に自分は間に合わなかったという思いにとらわれ続けた。自分が迷っていた時間の中でも、苦しんでいる人たちがいたし、その人達の後日談を聞かされるたびに悔やんだ。あの当時の孤立した、原発事故の最中に現地に飛び込んで尽力した人たちのことは、今でもリスペクトしているし、自分の入りの遅れが悔やまれている。
でも、視点を変えれば、それら先行した人たちの勇気は危険と背中合わせであり、冷静に考えれば賞賛ばかりはできない行為だったのも事実。一方で危険で先の見えない中で飛び込んできてくれた彼らに、どれだけ精神的に救われた人たちがいたか。それも事実。
物事の価値は簡単には決められない。SNSで簡単に断じられることとは違う。
人の世界は、時として冷徹な「計算」「戦略」と、我を忘れて他人のために飛び込む直情的な正義とで成り立っている。どちらが欠けても成り立たない。そして、この二つの形質は1人の人格に共存していることは稀である。
自分たちの社会にはそれぞれの持分がある。自分に欠けている部分は十分意識すべきだが、1人の人間に全てを求めるのは違う。
何のために自分を含めたこれほど多くの人間がいるのか。ひとりでは全てを引き受けられれないからこそだ。
自分の言い分は正論だとしても、その正論の陰で倒れていく人達がいることも忘れるべきではない。
その上で議論するならいいと思う。