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人のアクティブユーザー

AがBに益する行動Xをとったのはなぜかと考えたときに、「XはBのためになるから」では完全な説明になっていない。なぜBのためになるようなことをAはするのかと問えてしまうから。つまり、究極的には、それがAのためになるから、というところまで行き着かないとAがXをした理由の説明にはならないということ。その意味で、人間の行動は全て究極的には利己的なものである、と言わざるを得ない。これを超越論的利己主義と呼ぶことができると思う。

人間の行動は超越論的に見て全て利己的であるからこそ、個々の経験について、その行動原理がもっぱら自己のことのみを考えた利己的なものであるとか、逆に他者の利益も考えた利他的なものであるとかと言うことに意味を与えられる。逆に、人間の行動の背後にはその人だけにわかる動機があって、その動機が利己的であるか利他的であるかによって行為が利己的か利他的かが決まるのだ、と言う超越的実在論のような立場を考えてみる。その枠組みのもとでは、個々の利他的行動について、それは本当は利己的な動機によって行なわれているんじゃないか、といつまでも追求できてしまうことになる。つまり、個々の行為が利己的であるか、利他的であるかをもはや判断しようがない。

超越的実在論は経験的観念論に陥り、ただ超越論的観念論を採用することによってのみ経験的実在論を導くことができると言う、カントが語ったあの交差配列がここにも見られる!

しかし、現実の道徳を考えてみるに、採用されているのはむしろ前者であるように思える。故に「偽善」が問題になる。「やらない善よりやる偽善」と言うが、「やらない善」が可能であるということのうちに、超越的な動機の実在性が暗に前提されている?

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最初は、自由意志の否定という論点と人間は利己的存在に過ぎないという論点の繋がりがよくわからなかったんだけど、考えてみるとこういうことだと思うんだよなあ。仮に書いてあるとおりに受け取ると、人間に自由意志は存在せず、人間は機械と同じと言う一方で、人間は利己心のみによって駆動しているとも言っていて、でもこれは矛盾しているように思える。機械が利己的であるだなんて言う人はいないと思うし、人間即機械なんだとしたら、それが利己的であるとかどうとかはもはや関係ない、ただそうであるように動作するだけだ。

途中で、老人が青年に、心は君の思惑とは無関係に勝手に動いてしまうものなんだ、というようなことを言うわけだけど、この場合の「君」は何を指しているんだろうか。

あと、「もともと国民なんてものは、どんな政治にだって、どんな宗教にだって、いくらでもうまく適応させることができる。もちろん、論証によってなんかじゃない、あくまでも状況っていう強制力によってだがね。」という部分は単純にそのとおりだなと思った。