おいおいおいおいおい
さすがに店員を呼んで抗議した。
するとたまたまその店員が棚の担当者だったのだが、「新刊を並べてるだけで政治的意図は全くない」と強弁して開き直った。「いや明らかに偏ってるでしょ。せめて両論併記にしなさいよ。このトランスヘイト本が平積みされているだけで傷つく人がいるよ」と言ってもTなる書店員はしらばっくれるばかり。本社にメールします。ちなみに有隣堂。
追記:たくさんBTとお気に入りして頂きありがとうございます。ここで文章に直し入れるのは申し訳ないんですが補足を。
写真は書店の二階を占める専門書フロアにある「社会問題・海外事情」コーナーのエンド台です。大事なことなのでもう一度言います。専門書フロアにある「社会問題・海外事情」コーナーのエンド台です。
今年の2月末に撮影した同コーナー
ガバナンス… とかいうレベルかこれは
K県A市の歴史ある大型書店なんですけど。
有隣堂への抗議メール(1/4)
こんにちは。
厚木市在住の長谷川と申します。
本日御社の厚木店に伺い、2階の人文書籍フロアを見ていたところ、「社会問題・海外事情」コーナーの平台に並んでいる書籍の内容があまりに偏っているのに気がつきました。
勝手ながら写真を撮らせていただきましたので添付させて頂きます。
明らかにいわゆる「右派」の書籍のみで占められています。
ちなみに私は、ここで政治的主張を述べようとは思いませんし、書店さん、書店の担当者さんが自由な選択で商品を並べる権利があるとも理解しております。しかし、これはあまりに度が過ぎてはいないでしょうか。
厚木店さんは、厚木市に現存する唯一の大型書店であり、また厚木市と共に歩んできた長い歴史を持つ由緒ある本屋さんだと理解しております。厚木市の文化発信の中心的な存在だとも言えましょう(私も何十年にもわたって利用させていただいています)。「書物」という人間精神の一番重要な糧を供給するという使命を担っていらっしゃる御社には、やはり情報発信の公平性、公共性を保つ強い責任があるのではないでしょうか。
有隣堂への抗議メール(2/4)
その点に鑑み、「社会問題・海外事情」コーナーのラインナップは著しく不適切だと言わざるを得ません。これらの本を置くな、とまでは申しませんが、せめてこの世界には様々な意見、様々な観点があるということを、書籍の陳列を通じて示されるのが御社の最低限の義務ではありませんか?
今回、失礼を顧みずにメールを差し上げたのは、単に書棚の政治的主張の偏りが気になったからだけではありません。平台に「トランスジェンダーになりたい少女たち」が置いてあります。この書籍が物議を醸していることは、今さら私が申し上げるまでもありません。私が懸念するのは、トランスジェンダーの当事者である方々が、このコーナーを目にするだけで、傷つき、脅威を感じる事態です。表現の自由に鑑みて、こうした書籍を置くなとまでは言いません。しかしここは、情報発信者としての配慮が最大限に要求される場面ではありませんか?トランスジェンダーに関しては、既に様々な書籍が発行され、世の中の理解の一助となっているかと思います。
有隣堂への抗議メール(3/4)
「トランスジェンダーになりたい少女たち」がセンシティブな問題を孕んだ書物であるのは明らかなのですから、せめてそうした書物を並列して置く等の配慮は必要なのではないでしょうか。それとも御社は「表現と出版の自由」のためであれば、誰かが傷ついても構わないという方針なのでしょうか。
以上のような疑問を感じましたので、近くにいた店員さんにお話を伺いました。たまたまその方は棚の担当者でした。私があまりに内容が偏っているのではと申し上げると、店員さんは「新刊本を並べているだけで、政治的意図は全くない」とのお返事でした。明らかに事実に反しており、詭弁であることは言を俟たないかと思います。「『トランスジェンダーになりたい少女たち』が並んでいるだけで、傷つく人がいると思いますよ」との意見を申し上げても「新刊本を並べているだけ」との一点張りでした。それ以上申し上げても意味がなさそうでしたので、その場は終わりにさせて頂きました。
有隣堂への抗議メール(4/4)
御社にぜひお伺いしたいのは3点です。
1、厚木店の店員さん(お名前は失念しました)の見解は、御社の見解を代表していると考えてよろしいでしょうか。
2、もし厚木店の商品展開が御社の精神と違っている場合、是正はして頂きますでしょうか。
3、御社の各店舗に対するガバナンスは、どのようなバランスの下に行われているのでしょうか。
以上、お忙しい中とは存じますが、ご返答いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
さてさて有隣堂から返事が来たよー
長谷川様
平素より有隣堂をご利用くださいまして誠にありがとうございます。
このたびは厚木店の「社会問題・海外事情」コーナーの平台に並んでいる書籍についてお問合せとご意見をありがとうございます。
お客様からの貴重なご指摘として、店舗責任者および本部担当者に申し伝えさせていただきました。
また、店頭にてご指摘いただいた際に、ご意見をいただいた御礼や不愉快な思いをお掛けしているお詫びの言葉やご説明も足らず、申し訳ございません。
世の中には様々な考え方があり、書店はさまざまなご本を通じて、ご来店くださるお客様に多様性を提供する、大切な役割を担っております。
書店独自の考えで特定の書籍を排除するものではなく、出版社が作ったものを書店、または問屋を通じて書店に納品されたものは、法律に反するもの以外は原則、店頭に並べ、様々な価値観、お考えのお客様ご自身のご判断でお選びいただき、ご購入いただいております。
ご高配賜りたく、お願い申し上げます。
株式会社有隣堂 ショップマスター(名前は略)
ほぼゼロ回答。予想通り。
ここから俺の戦いが始まる。
乞うご期待。
店員の強気な態度と、この木で鼻を括ったような定型文から察するに、あのエンド台は有隣堂のトップから黙認されているというよりも、トップの思想を積極的に反映している蓋然性が高い。創業二代目とか三代目とかの大企業のトップなんて十中八九ウヨですよ。有隣堂の社員たちとて一枚岩じゃないはずなので、可哀想っちゃ可哀想。あのコーナー、店の他の売り場からは明らかに浮き上がってるんだよな。一階の文庫コーナーは岩波文庫が結構充実していて、カントの新訳とかの新刊が平台に並んでいたりする。
有隣堂への再メール(1/ 13)
株式会社有隣堂 ショップマスターN様
お世話になります。厚木市の長谷川です。お忙しい中早速お返事をいただきありがとうございました。ゴールデンウィークの最中にも関わらず御社厚木店スタッフの皆様に私の意見をお伝え頂けたとのこと、まずはお礼申し上げます(迅速に対応していただいたにも関わらず返事が今日になってしまいました。すみません)。ただ、私の言葉足らずで、いささか真意を伝え切れていなかったようにも思われますので、若干の補足をさせて頂ければと思います。なお、再クレームではありませんのでお気軽に読み飛ばしてくださいませ。何らかの対応を求めるものではありませんし、お返事もいただかなくて結構です。とはいえ、私の駄文にただ目を通していただくことだけで、ご多忙なNさんのお時間を頂戴することにはなるので、その点は心苦しく思います。どうぞご寛容の心でお付き合いくださいませ。
さて、まずは一点、お詫びを申し上げたいのです。Nさんは厚木店の店員さんが私に「不愉快な思い」をさせたとおっしゃられますが、これは逆です。私の方が店員さんに不愉快な思いをさせてしまったのです。
有隣堂への再メール(2/ 13)
端的に言って、私は「お客様」ではありません。その日も御店で買い物はしませんでした。つまり単なる通りすがりです。店員さんに対して、私は立場が上でも下でもありません。真面目にお仕事をされている店員さんにしてみれば、わけわからないおっさんにいきなり詰問されたことは災難でしかないでしょう。私は声を荒げたりはしませんでしたが、にしても、礼儀正しい態度とは言えませんでした。一方、店員さんの態度は、にこやかというものではありませんでしたが、非常識なものでもありませんでした。また、今から思うに、店員さんは私に対し、御社の姿勢を過不足なく伝えて下さったのです。Nさんから頂いたお返事では、私の挙げた三点の質問事項が見事なまでにスルーされていますが、そのこと自体が御社の姿勢を雄弁に語っているとも言えます。つまり、店員さんとNさんは、私の問いかけに対して、全く同じお返事をされているのです。ちなみにお二人を非難するつもりはありません。
有隣堂への再メール(3/ 13)
Nさんは御社を代表して私の文句に対応されているのですし、店員さんにしても、本音はどうあれ、御社の社員として、あれ以上のこともあれ以下のことも言えなかったでしょう。店員さんとの話は始終平行線でしたが、現場対応という意味では私は何の文句もありません。かえって私は客でもないのに終始ぶっきらぼうな態度でしたので、むしろ私がお詫びを申し上げなければならないでしょう。まことに申し訳ありませんでした。よろしければ店員さんに私が謝っていたとお伝えください。
…いささかくどい物言いになっているかも知れません。もうしばしお付き合いください。私と有隣堂さん(ないしNさん)の間に、実はもう一つの誤解があるのです。「世の中には様々な考え方があり、書店はさまざまなご本を通じて、ご来店くださるお客様に多様性を提供する、大切な役割を担っております」とのことですが、全くおっしゃる通りであり、私にいささかも異論はありません。少し残念なのは、私が差し上げたメールの中でも、「特定の本を売るなということではない」と何度か申し上げているにも関わらず、その点を汲んで頂けなかった点です。
有隣堂への再メール(4/ 13)
でもそれはもう良いのです。私が一番申し上げたいことは、そこではありません。
問題は、御社のおっしゃる「多様性」とは、誰にとっての多様性かという点です。答えは引っ張るまでもなく、御社にとってのお客様、つまり消費者の商品選択における多様性のことでしょう。しかし、私は客として、消費者として意見を申し上げているのではないのです。先ほども申し上げた通り、単なる通りすがりの者としてです。または「隣人」として、と言ってもいいかも知れません。有隣堂厚木店さんは、まずもって、御社がご商売をする場所です。本来は、私みたいな通りすがりがとやかく口を挟むことはないのです。でも、本屋さんは、一方で、それこそ多様な人々が通り過ぎ、また、そこにひとときの憩いを求めて多様な人々が集まってくる公共の場でもあります。また、本を買うという明確な目的を持って書店を訪れる人たちもまた、単なる「消費者」として来店するわけではありません。様々な背景と、様々な現在と、様々な希望と、様々な不安と、様々な立場と、様々な意思と、その他様々な感情の集合体として、人は本を求めて書店を訪れます。
有隣堂への再メール(5/ 13)
その無数の要素の中で、「消費者」はほんの小さな位置を占めるに過ぎません。まずもって、書店とは「お客様=消費者」が集まる場所ではなく「人間」が集まる場所であり、その意味で公共圏の一部をなすと言えましょう。すると御社の経済活動にとっての多様性が、公共圏としての書店の多様性を侵害する場合がありえます。つまり、「消費者」にとっての多様性が、「人間」の多様性を侵害する場合があるのです。陳列されている本を目にするだけで、そこに命の危険を感じる人もいるでしょう。排外主義者たちの書いた本が平台に隙間なく並べられていたら、外国をルーツに持つ人々は恐怖を感じるでしょう。これは私ごとき「お客様」の「不愉快な思い」などとは比べものにならないはずです。ダラダラとすみません。私が問いたいことを端的にまとめるとこうなります。有隣堂さんは、あらゆる人たちが、御店を憩いの場として、休日や仕事帰りにほっとした時間を過ごせる場所を目指しているのか、
有隣堂への再メール(6/ 13)
それとも「言論のアリーナ」なる論理のもとに、そして「多様性」の名のもとに、攻撃的な書物の群れがわが物顔に平台を占め、人知れず傷ついた人たちが、無言のまま遠ざかってゆく場所を目指しているのか。
…しかし、ここまで書いてから、私ははたと自問しました。まず、もう御社の「答え」は出ているのです(そうですよね、Nさん)。これはもう、私ごときがいくら叫んでも覆らないでしょう。では何のためにこんな長文メールをしたためているのか。何を隠そう、Nさんからお返事をいただいてから、もう三日も四日もこのメールを書いては消し書いては消ししているのです。「これはくどい」「これはイヤミだ」などとぶつぶつ言いながら。まるで片思いの相手に送る恋文のようにです。何という愚行でしょうか。自分の時間が空しく費されるのは自業自得としても、おまけにこれを読むNさんの貴重な時間まで食い潰して、一体何になるのでしょうか。更にもう一つの疑念があります。
有隣堂への再メール(7/ 13)
何度か申し上げているように、私は「消費者」として意見申し上げているのではありませんし、「営利企業」としての御社に向かって意見を申し上げているのでもないのです。通りすがりとしての私が、公共圏の「地主」としての御社に話しかけているのです。公共圏は、誰のものでもありません。御社のものでもない。だとすると、そのケツを、企業としての御社にだけ持っていくのは間違っているのではないか。問題は、あまりに大きい。日本を席巻している新自由主義と排外主義は、公共圏をどんどん圧迫する方向に動いています。とりわけ出版業界は、書物という精神の一番大事な糧を扱うだけに、政治的、社会的、経済的な様々な力で非常に風通しが悪い状態になっているとの認識を持っております。その「出口」でしかない書店さんに、全ての倫理的な責任を負わせるのは無理があるでしょう。「言論のアリーナ」なる詭弁も、結局、書店さんが陥っているこういう逃げ場のなさから出てきた、いわば「悲鳴」なのかも知れません。もちろん、この論理に積極的に加担する書店さん、店員さんもいれば、そうでない方もいるでしょうけど。
有隣堂への再メール(8/ 13)
そこまで考えると、やはり厚木店での私の店員さんへの物の言い方は間違っていたと言わざるを得ません。自分は公共圏を利用する「隣人」として、やはり公共圏に住まう「隣人」である店員さんに、対等な立場で、丁寧に語りかけるべきだったのです。でもその時の私には、どこか「お客様=消費者」としての意識が残っており、けしからんことに、真面目に仕事をしている店員さんに向かって、完全に上から目線でクレームを入れたのです。「これが御社の姿勢なんですか?」などと。全く恥ずべきことです。できれば時計を巻き戻したい。でもNさん、安心してください。厚木店にとって返して店員さんを捕まえ、諄々と自説を語り聞かせるようなマネはしませんから。その代わりに今、Nさんを相手に思いのたけを吐き出させていただいています。お仕事とはいえお気の毒様です(ちゃんと読んでますよね?念のため)。
ですから、私は今、有隣堂ショップマスターのNさんに消費者としてクレームを入れているのではなく、公共圏を共有する隣人として、同じく隣人たるNさんに話しかけているのです。というか、たった今、そのことに気がつきました。
有隣堂への再メール(9/ 13)
先日頂いた定型文の羅列の背後にいらっしゃる個人としてのNさんが、どんな方なのか、もちろん私は知りようもありません。御社の企業姿勢に深く共感しつつ業務を行っていらっしゃるのか、それともそうでもないのか。あるいは私みたいな有象無象を相手にすることで疲れ切り、その日その日を何とかやり過ごすことで精一杯なのか。最後の説が一番ありうる話だと思います。ご同情します。
脱線が長くなりました。そろそろまとめに入ります。やはり私は厚木店さん2階のエンド台の品揃えには納得がいかないのです。何度も申し上げますが、「特定の本を置くな」と言いたいのではないのです。しかし、当該コーナーは専門書フロアの中の「社会問題・海外事情」と銘打たれたコーナーです。その面玄関に、かつての安倍政権の阿諛者たちの著作、トランプ元大統領を礼賛する著作、性的マイノリティに対するネガティブな内容を含むいわくつきの書物、「移民侵略」なる排外的なタイトルを掲げた書物「だけが」並んでいるという事態は異常という他はないでしょう。
有隣堂への再メール(10/ 13)
もちろん御社の公式見解としては、それが「多様性」なのでしょう。今更このメールのやり取りにおいて、意味がある言葉をいただけるとは思っておりません。また、そのことで、Nさんは店員さんを責めようとも思いません。
この状況を嘆かわしく思うのは、一つには私のいわゆる左翼的な思想がなさしめるものです。もう一つ理由があります。御社のホームページを拝見したところ、厚木店さんのオープンは昭和46年とのこと。私が家族と共に厚木に引っ越してきたのが翌年です。当時私は小学校二年生でした。その頃の私にとって、駅前のピカピカの大型書店はまさに宝の山でした。それから大学に入学して生活圏が東京に移るまでの十年あまり、有隣堂厚木店さんは、私の心の中で極めて大きな位置を占めてきました。有隣堂さんなくして今の私はありません(したがって御社に文句をつけることもなかったでしょう)。私の精神的な故郷といってもいいでしょう。ですので、当該コーナーの殺伐としたありさまは(これは右だの左だのといった政治的傾向だけによるものではありません)、なおさらさびしく、悲しいものがあるのです。
有隣堂への再メール(11/ 13)
有隣堂厚木店さんは県央に燦然と輝く知性の殿堂だったはずなのですが。
そんな思いから、私はこれからも何らかの形で御社に対する声をあげていこうと考えております。でも、いわゆる不買運動や、炎上狙いのネット拡散のような方法をとるつもりはありませんので、そこはご安心ください。こうしたやり方は、「消費者」が「企業」に圧力を加える行為に他なりません。すると必然的に、運動は「消費」の次元から外に出ることはなく、問題提起が公共圏の次元に広がっていく道があらかじめ塞がれています。つまり、不買運動は、御社をはじめ、多くの書店さんの姿勢である「言論のアリーナ」と選ぶところはないでしょう。
私が漠然と考えるのは、こうしたやり方は取らず、志を同じくする「隣人」を、地道にひとりひとり増やしていきたいということです。
有隣堂への再メール(12/ 13)
書店さんを「私企業」という閉ざされたテリトリーとみなすのではなく、境界線を持たず、絶えず外に広がってゆく公共圏、誰のものでもなく、同時に皆のものでもある公共圏とみなせば、そこに生まれる「責任」は、書店さんのみが負うのではなく、我々「隣人」皆が負うべきだという帰結が生まれます。私はそうした責任を共にする「隣人」と出会いたい。でも、それは非常に根気が要ることで、また、そこから何らかの具体的な成果が得られる可能性はわずかです。それでも私は「隣人たち」に呼びかけたい。
そしてNさん、何を隠そう、あなたは私が呼びかける相手の、記念すべき第一号なのです。ご迷惑でしょうけど。私がとりあえず望むのは、Nさんが私の考えに賛同してくださることや、何らかの行動を起こしてくださることではありません。ただ、このメールを最後まで読んでくださり、そんな考えもあるのだと、どこかで覚えていてくだされば、ひとまず私の目的は達せられたことになります。
有隣堂への再メール(13/ 13)
芽が出ようが出まいが根気よく種をまくこと。これが私の使命だと考えます。Nさんに深く感謝申しあげたいのは、自分の中で、こうした考えがはっきりと像を結んだのは、このメールを四苦八苦して書き上げる中においてだったからです。Nさんとの出会いは、私の中で確かに大きな意味を持っています。顔も知らない相手からいきなりこんなことを言われ、さぞかし気持ちが悪いでしょうが、事実なので申し上げます。ありがとうございました。
長々と書き綴りましたが、御社の名前の由来を引いて終わりにします。
「徳は孤ならず、必ず隣有り」
どうぞお元気で。