結局AIに求められているのは「ジャッジ」し「決断」する機能だ。従来のコンピューターであれば、あるパラメーターについて閾値を定め、それに基づいて事象を分割すること止まりだっただろう。だがこれは主体的なジャッジではなく、いわば「法」を遵守する機能であり、その「法」を定めるのはあくまで人間だった。しかし無数の可能性の中から一つの行動を選ぶ「ジャッジ」ないし「決断」は、その原理からして「法」を乗り越えてゆく。これが許されている、というか、許されようと許されまいと、これが存在の条件であるのが我々個々の人間だ。我々はあらゆる瞬間にジャッジし、足を一歩踏み出すごとに「法」を乗り越える。おそらくこれが原罪というものなのだ。そして、この自由な決断の行為を国家に許さないのが民主主義であり、憲法であり、国際条約だ。逆に国家を一つの個と看做し、自由な決断を行わせようとするのがファシズムだ。だとすると、AIは本来的に脱法的であり、ファシズムと親和性を持っているということになる。
顧客サービスでチャットをするAIも、お絵描きをするAIも決断をする。故にそこには人間だけの特権であるはずの「罪」が生まれ、法の侵犯が生まれるのだ。この同じ原理が今ガザで人々を殺している。悪用されたAIでも誤用されたAIでもない。これがAIの本来の姿だ。