Quote: 20世紀においては国民国家とそれに伴う階級社会が転換することになり、少数民族や人権問題の出現、大衆社会の成立が認められる。国内政治において政党が代表していた階級社会が消失したために、政党によっても代表されない孤立化した大衆が表面化したのである。ソ連について言えば、スターリンが集団農業化と有産階級の撲滅により個々を孤立無援にすることで、大衆社会を成立させたとする。この大衆は自らの政治的発言を階級政党とは別の政治勢力として集約しようと試み、プロパガンダを活用する全体主義運動を支持することになった。全体主義は大衆の支持を維持するために、また全体主義が体制として機能するためにはテロルとイデオロギーが重要である。テロルは法の支配によって確立されていた自由の領域を排除し、イデオロギーは一定の運動へと強制することで全体主義を制度化した。全体主義体制が問題であるのは、「個人性をまったく殲滅するようなシステムをつくること」にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
斎藤元彦ー立花孝志はまさに「法の支配によって確立されていた自由の領域を排除」しているわけであるが、「一定の運動へと強制する」イデオロギーが薄弱である。ただしそのイデオロギーは陰謀論=大衆運動として容易に醸成されることが、例えば昨年の兵庫県知事選挙の数週間であからさまになったので(それは「斎藤元彦がんばれ」「陰謀に負けるな」というイデオロギーであった)、次にどこでどのように勃発するのか、非常に危うい。
彼らの周辺でその直接的な影響で何人も死んでいるのに、そのことにまったく動じない当事者の姿はまさに「個人性の殲滅」の名にふさわしいのである。
幾多の個人の死に全く動じないその姿は私にとってはあまりの禍々しさにサスペンスの映画を眺めるように、目を奪われてしまうところがある。信じがたい存在を発見したときに、目を見開いて動けなくなる、そのような感覚である。それを逆に「魅力」「すごい」「面白い」と捉えモブとしてその運動に参入する人間が一定数存在する今の状況は、アーレントの分析に一般性があることをますます示しているように思う。
@kmiura そのモブしている連中は「〜がんばれ」のあとに「オレはシランけど」という言葉を隠してる気がします。それはまさにアーレントが指摘した「悪の凡庸さ」の好例ではないでしょうか