同調圧力や平和圧力、日常圧力はどこの社会にもあって、多くの人たちが、いつもシリアスで先のない絶望に満ちた話は聞きたくないというのもわかります。
口を開けば批判や不満ばかり言う人たちと一緒にいたくないというのは生理としてあるだろうと思う。
それはわかる。
一方で朝から晩までお笑い芸人(のような人たち)が現状を顧みずくだらない笑い声への賛同を無言で強いるような社会も私はごめん被りたい。
自分は自分でありたいし、笑う時は笑いたいし怒れるときには怒りたい。
社会が全体としてそういう「日常」と「批判(のようなもの)」とを自然なあり様として、受け止められる社会に暮らしたい。
「今、ちょっと彼が言いたいことがあるようだから、少し彼の話を聞こう」といえる社会。
場の雰囲気を壊すことばかり恐れ議論を封じる社会は自分としては未成熟な社会(日本はそういうところがある)として受け止めるので、リアルの会合でも、あえて雰囲気を壊しに行くところはある。
みんな嫌だと思うけれど少し言うよ的な。ことを言って。くどくどは言わないようにはしている。伝わる人には一瞬で伝わるので。
吹かすところと緩めるところ。その両立がないとどんな運動も続かないというのもある。
くどく言わなくても一瞬で理解してくれる人たちとできれば一緒したいので、なぜなら自分の生のリソースも根気も無限にはないからですね。人生の時間もね。