「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか/仁木ふみ子さん(青木書店)」の虐殺事件後に朝鮮人・中国人を移送・収容した「習志野収容所の実態」に関する一部文章を紹介。
ぜひ書籍を読んでください。
『9月4日、戒厳司令部は、「支鮮人を習志野旧捕虜収容所へ収容する」命令を出す。
…各部隊は警備区域の鮮人を「適時収集し、国府台に逓送」し、習志野衛戌残留部隊は、国府台で鮮人を受け取り、廠舎に送りとどけることになった。
…国府台の野戦重砲兵第七連隊では、9月3日、中国人350名を収容したが、5日、習志野廠舎に収容換えをした。
…6日、大島三丁目在住の中国人700名は警察官百余名に包囲捕縛され、習志野に送られた。これが「適時収集」の実態であった。…
張代理公使は9月21日、南千住および習志野収容所を慰問かたがた視察している。
…これらはみな演出されたもので、視察が来る朝は大掃除をさせられ、一切被害については話してはならぬと口止めされ、中国語の分かる日本人がついていて、もし話をしようものならひどい目にあうのだと上海に帰ってから、かれらは口々に王兆澄に訴えている。
習志野収容所ではすべての郵便物の検閲が行われ、収容所内部から王兆澄に出した手紙も、王兆澄が収容所の中国人労働者にあてて王希天の調査依頼をした手紙も押収された。…
実際に収容された者の話は次のようである。呉進明ははじめ国府台に、のち習志野に移されている。
9月1日の地震のあと、わたしは小松川に避難した。
2日、地震も収まったので大島町2丁目に帰ると晩になって警察が「…市川山上に行け」という。
私達4人は…市川に行くと兵営があって、夜6-7人の中国人が市川駅から日本人に打たれながら山に追い上げられていた。1人は首につるはしでやられた穴があって血みどろで凄惨なありさまだった。
3日朝は食事抜き、午後2時に兵隊が乾パンを少しくれた。
我々3-400人は営内に押し込められて出入りを許されず、5日習志野に送られたが、まるで俘虜同然で、沿道は軍警や苦力が銃を持ってかためているので、とても恐ろしかった。
9日、同郷の黄得富が裸体で拘引されてきたので、どうしたのかときくと
「私は黄大臣らと日本人のために紫舟を漕いでいた。地震後日本人が私の荷物を没収し、警察や労働者がたくさんやってきて、お前は朝鮮人か中国人かと聞くので、中国人だといったら、かれらは、我々を外に追い出して、まず1人を水中に突き落とした。後の3人もめった打ちにされて死んだ。この4人は…黄大順、王矩春、王作行、王挺柳だ、われわれ3人は幸いにも死なないで済んだが身体はこのように完膚無きまでに打たれ、金もとられ、ご覧の通りボロ一筋もないよ」
とひどく泣いた。
習志野在営中は牢獄同然で、1日に卵大のにぎり飯3個、平時の一食にも足りない。夜は石の枕、板の上で寝た。天気は寒暖常ならず病人がたくさん出た。兵士は残忍で少しのことで鞭や棍棒が飛ぶ。中国人の持ち物はみな取り上げらえた。中国語の分かる探偵がそばで監視し、公使や領事やその他の代表が来ても事情を告げることは出来なかった。』
ぜひ書籍を読んでください。